ナホトカ 極東の掘り出し物!!

今回のブログでは、私の小さなふるさと、「ナホトカ」について紹介します。

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この町は、日本海沿いにある沿海地方にあり、同地方では三番目に大きな港町になります。とはいっても人口は約15万人程度(そもそも沿海地方の人口は200万人程度しかいません。。。)ナホトカは日本と非常に関わりの深いことで有名です。

【歴史】

この港町は、19世紀後半、ロシア帝国がシベリア極東開拓をしていた時代に見つかりました。その時のエピソードに、この町の名前の由来があります。以下、紹介します。

 

19世紀後半、ロシア帝国でシベリア極東開発を推進していたのは、東シベリア総督でした。1859年6月17日、東シベリア総督を乗せた船(アメリカ号)が嵐に遭い、一時的に入り江に隠れました。その入り江が、港として非常に適していた天然の良港であったことから当時の総督「なんという掘り出し物だ!!『Какая находка!!』」と言ったそうです。(本当に言ったかは、わかりませんが。笑)

尚、その時の東シベリア総督は、ムラビヨフ・アムールスキーと言います。世界史で学んだ方はご存知かもしれません、ロシア-中国間で結ばれたアイグン条約の締結に貢献した人物です。

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ナホトカ発見以来、村が出来始め、人口も次第に増えてきました。最初にムラビヨフ・アムールスキーが乗っていた船の名前からアメリカ村とも言われたそうです。そして、1950年ついにナホトカは市として正式に認められました。

【日本との関係】

第二次世界大戦後、シベリア抑留者はナホトカを介して日本へ帰国しました。

ソ連時代、多くの都市は外国人の訪問を禁じていました。特に沿海地方ではウラジオストクが軍港であったため、このナホトカが沿海一の外国人訪問可能都市でした。

1956年にナホトカは国際貿易港として認知されました。1958年には日本の敦賀港と直接貿易が始まり、1961年にはナホトカ-横浜港間で観光クルーズが運航されていたそうです。1967年から1992年にかけ日本の総領事館がナホトカにありました。(1992年以降は、ウラジオストク

また、ナホトカと姉妹都市になっている日本の都市は、舞鶴(1961年以降)、小樽(1966年以降)、敦賀(1982年以降)と3都市もあります。舞鶴市との友好の証として、ナホトカ市に舞鶴市から持ってきた記念碑が建てられています。

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またナホトカには1983年に「石の庭(Сад  камней)」という場所が出来ましたが、これは、敦賀市姉妹都市になった際に設立されたものです。

そして現在も日本の貨物がロシアに輸入される時や、ロシアの貨物が日本へ輸出される時、ナホトカにある港を通じて行われています。

 

【今日のロシア語】

掘り出し物 находка(ナホトカ)

ロシア語の名詞は、動詞とセットで覚えると分かりやすいですよ!!

例えば、「発見する」を意味するロシア語は、Найти/Находить。ここから、Находка(掘り出し物)は来ているんだと思います。

 

ではでは、本日はこの辺で失礼します。Пока‼(パカ)→またね!!